初代 由水十久

染 絵 の 世 界

昭和61年4月開催・主催/紺文工芸館

後援/静岡市教育委員会・協同組合加賀染振興協会

 

源氏物語染絵屏風「花宴」

 

この屏風の製作について、作者由水十久は次のように述べています

 

屏風 源氏物語「花宴」の栞

 源氏物語「花宴」の巻中、光源氏と朧月夜の君との初めての出会いを、加賀友禅として染め上げたものです。


 如月二十日あまり南殿の桜宴に舞楽などの用意十分のところ光源氏は春鶯囀を舞はれたあと、頭中将や上達部が皆々次第もなく舞はれました。夜になって詩などあまた披講しますのにも源氏の君のお作は、講師も博士どもも心からお褒めし感服するのでした。
 夜もたいそう更けてから宴は終わりました。
 后や春宮もお還りになり、上達部も退散しひっそりとしたところへ月が明るくさし昇った風情のおもしろさを源氏の君は酔心地に見過しがたく、宿直の人の寝入ったのを幸いこんな時もしやよい機会もがなと藤壺のあたりをやるせなげに忍んで窺い歩きましたが手引を頼む人の局も戸鎖していますので溜息を吐きながら、それでもこのままでは諦めきれず、弘微殿の細殿にお立寄りになりますと三番目の戸が開いているのでした。女御も上の局にお上りになりましたのであとは人のけはいもしません。こういうことから得て世の中の間違いというものが起るものなのだと思ってそうっと長押へ上ってお覗きになります。人は皆寝てしまったのでしょう。とたいそう美しい声の、並の者とも覚えぬ人が「朧月夜に似るものぞなき」等口ずさみながらこちらへ来るではありませんか。嬉しさにはっとして、つと袖をお控へになります。女は恐ろしいと思ふ様子で「気味の悪い、これはどなた」とおっしゃるのですけれども「何もそんなにお疎みにならないでも」と仰せになって

深き夜の哀れを知るも入る月の
 おぼろげならぬ契とぞおもふ


「花宴」下絵

と、やおら抱き下して、戸を締めてしまいました。あまりのことに呆れている有様が世にも可憐で美しいのです。この朧月夜の君は、「六の君」と言ふ。父は二条太政大臣で源氏の君とは政敵にもなると言ふ間柄、六の君は、時の春宮、後の朱雀院の配偶となる人です。それが為に光源氏は後に須磨へ退くことにもなるのです。朧月夜の君との初めての出会の夜は源氏十九歳の春のことです。


 加賀友禅のおこりは、宮崎友禅斉が加賀藩によって京都からよばれて加賀にそれ迄あった梅染に独特の絵を応用して発達させたものと言ふことになっています。
 然し史実としては判然としたものはない様で、京都にも加賀にも友禅斉の活動以前に、糊防染による色絵があったとも言はれ、友禅斉の生涯もまた、模糊として判然としたものがないと言ふことです。金沢の龍国寺に発見された墓石はあるものの、京都では終焉の地を京都だと言ふといったぐあいです。
 ともあれ、史実はどうでも、現在古い加賀友禅と言ふものが残され伝っていると言ふことと、其の技法が、加賀金沢に伝統芸術として伝って今≠ると言ふことは、そして友禅斉が創った、創らぬは別として、彼かまたは何人かの名工が居て、その作品と、技法が残ったことは事実です。
 加賀友禅の特色は、京友禅が総詰め的で図案風なのに、加賀友禅は狩野や土佐派の絵画を基に発達したので絵画風であると言ふこと。次に糊の糸目に太細があり糸目(糊による線)が京都より目立つと言ふこと。
 またぼかしの手法が多く色調に藍と、臙脂、黄土と臙脂独特の緑等反対色の効果をぼかしの手法を多く用いた彩色法で一見して京都や江戸のものと判然と区分け出来るのです。
 現在は京都も東京も金沢もその差別は少なくなり新しい材料、流行の激しい変り方等々で古い加賀友禅とは遠く離れたものが多いと言ふのが現在の加賀友禅ですが、古い加賀友禅は加賀調≠ニよばれ珍重されて今も製作されています。特に近年は珍重されているのです。
 さて此の屏風はいわゆる古い加賀染の染法に加えて是迄加賀友禅には同時に使用しなかった蝋を多く用い、人物の線等は糊と蝋によって複雑な染め方をしてあります。
 使用した絵具も屏風と言ふ特殊な染ものであることから、長年の褪色と言ふことを考えて充分の試験を重ねた上、是迄色絵≠ノは使わなかったものを工夫して使ふという風にして染め上げたものです。

作者 由水十久 誌

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