千家十職・塗師の系譜「中村宗哲歴代展」は2002年2月23日(土)〜3月10日(日)に開催いたしました


歴代宗哲略伝

中村家元祖 豊臣秀吉の重臣、中村式部小輔一門の武士。大阪夏の陣に合戦をうとみ、京都武者小路に隠栖し茶の湯をたしなむ。

初代 宗哲

元禄8年(1695)79歳没。元祖の長男。寛永年間隣家の一翁宗守の息女とその家業を迎えて塗師となる。方寸庵、漆翁、杯斎と号し、通称八兵衛。
千家の宗旦一翁、江岑、仙叟宗匠方や灰屋紹益、藤村庸軒らと親交があり、利休形や好み道具を作す。総体薄作にて器用、棗の甲やや扁平、肩の造り美しい。作名は漆書き。

二代 宗哲

宝永3年(1706)36歳没。汲斎と号し、名を八兵衛。
御所御用も勤める。棗は堅牢な作ぶり。棗の甲やや高くもり上がる感じ、合口は漆がかかり、作名は漆書き。

三代 宗哲

安永5年(1776)78歳没。名は方寸庵、漆桶、勇庵など。
御所御用にて後桜町帝の御即位調度を作す。茶道を究め大龍和尚に参じ、覚々斎、如心斎の信を得、七事式制定に参画す。俳諧を堀内仙鶴に学び、蕪村、几菫と親交。70歳に700の棗を作らんと、彭粗700歳に因み俳句を付し、彭粗宗哲と呼ばれる。重厚な作風で夜桜棗など特技とした。

四代 宗哲

寛政3年(1791)64歳没。名を八郎兵衛、号を深斎、三代一女の婿養子。
従六位下の官位を賜り執火官となる。近衞家、鷹司家の知遇を受ける。若年八郎兵衛宗哲と署名し、後年剃髪して宗哲となる。作名は漆書き、一燈、不見斎、直斎宗匠方の好み物を作した。

五代 宗哲

文化8年(1811)46歳没。名は八兵衛、号を豹斎、俳号漆畝。四代一女の婿養子。
25歳で天明の大火に遇ったが、寸法帳、図案帳など資料を整え、中村家の記録をよく残す。棗の作風、技法が洗練され、合口に漆かからず、作名も針彫となる。

六代 宗哲

天保10年(1839)46歳没。名を八郎兵衛為一、号を揲斎、五代の長男。
後に代を弟に譲り分家して八郎兵衛宗哲と署名。この頃より蒔絵の華やかな棗が好まれはじめ、認得斎好の蔦棗、宝船棗などもその一例。

七代 宗哲

弘化3年(1846)49歳没。名を八兵衛安一、号は獏斎、俳号黒牡丹、五代の次男。
尾州徳川家から得玄の印を拝領して得玄宗哲という。技術入念で荘重美麗、歴代中随一。光格帝夕顔台子、認得斎、玄々斎好み夕顔棗、西山名所棗など、意匠も多彩となる。

八代 宗哲

明治17年(1884)57歳没。名を八郎兵衛忠一、号は到斎、七代の長男、大綱和尚より聴雨の号を受く。
嘉永の御所やけに類焼、幕末維新の屋敷接収に遇ったが、資料をよく整理、能筆で学を好む。井伊大老好みの十二月棗、玄々斎好みの曙棗、羽衣棗、碌々斎好みの既望棗などを残す。明治維新後は博覧会に勤務し、フィラデルフィア万国博に出品、受賞。

九代 宗哲

明治14年(1911)56歳没。名は喜三郎、号を英斎、俳号は一畝。八代四女の婿養子で元教育者。
明治の復興期に家業経営、技術練達に苦心した。惺斎好み赤壁望棗など作す。美術工芸学校漆工科創設委員、また博覧会に出品し賞状を受く。

  十代
   尼宗哲

大正15年(1926)65歳没。名は真女。八代の四女、夫九代の没後、後継者を養成しつつ家業を継ぐ。
尼塗もよしとの惺斎宗匠の仰せで100以上の好み物を作し、作風も華やか。書、技芸、俳句にも長じ、大正初め旧宅に復す。

  十一代
      宗哲

平成5年(1993)95歳没。九代の二男忠蔵、名は八郎兵衛、号は元斎、俳号九土。
大正初めから昭和へ、戦乱を経た70年、三千家の好み物など制作。三井家の桐浪台子、即中斎好源氏十二月茶杓、誰が袖四季棗など作す。京都府文化功労者。茶道文化功労者。

当代 宗哲

十一代の長女弘子。京都市立美術大学卒。日展、朝日新人展出品。昭和61年、十二代を襲名。
彩漆器個展を各地で開催。「哲工房」主宰。著書「漆うるはし塗り物かたり(淡交社刊)」。平成5年、京都府文化功労賞受賞。平成12年、京都市文化功労者表彰。
  

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